インタビュー & 特集
INTERVIEW!『扉の向こう側』壮 一帆さん Part.1
現代イギリスを代表する喜劇作家アラン・エイクボーンの『扉の向こう側』が、この秋、ミュージカル界で活躍するキャストを揃えて上演されます。宝塚退団後初めて翻訳もののストレートプレイに挑む元雪組トップスター・壮 一帆さんに、作品への意気込みをお聞きしました。(取材・文/藤本真由[舞台評論家]、写真/笹井タカマサ、ヘアメイク/引田早苗[BELLEZZE])
INTERVIEW & SPECIAL 2016 10/13 UPDATE
――時間を超えるファンタジーであり、女性同士の連帯やちょっとエッチな笑いなどさまざまな要素がふんだんにつめこまれたウェルメイド・プレイですが、壮さんご自身が戯曲を読まれての印象は?
時空を超えた女性三人が力を合わせて事態を変えようとするファンタジーであるところが印象的でした。ちょっとシュールなところがありながらも、王道の見せ方をしていく、そのバランスがいいなと。一面的にだけ面白いという作品ではないので、ミュージカルがお好きな方、宝塚がお好きな方、逆にこういった戯曲がお好きな方、さまざまな方が観にいらしてそれぞれお楽しみいただける作品なんじゃないかなと思いましたね。大団円へのもっていき方は、何だかアメリカっぽいテイストかなと思ったり。
――イギリスの劇作家の戯曲ということで、これまで多く取り組んできた日本人作家の戯曲との違いは感じますか。
それはありますね。春に出演したミュージカル『エドウィン・ドルードの謎』でも感じたのですが、例えば笑いやシュールさにしても、アメリカ人だけがわかるもの、イギリス人だけがわかるものといろいろあると思うんです。それを日本人のキャストで日本で上演する際、演出の方がどう調理されるのかがまずは一つポイントになってくる。その上で、最終的に舞台に上がるのは役者ですから、役者自身がどう理解して表現するのかがキーポイント。今回も、上演台本をしっかり読み込んで分析し、身体で理解できるところまでもっていくようにしたいですね。これだけの分量のセリフを覚えるのも初めてなので、いったいどうなるか見当がつかなくて。今までだったら、だいたいこの時期にはこういう作業をしてと、プラン、流れがあったんですが、今回はそれが全然読めないなと。まずはホン読みで自分の中に大きな軸をしっかりと作って、とにかく音読して自分の中にセリフを入れて、立ち稽古までには台本を持たないで臨むというのが従来の流れなんです。立ち稽古では相手の顔を見たいからなんですが、最初はまだセリフを思い出しながら言っている状態なんです。それを、稽古でのやりとりの中で荒削りなものをどんどん磨いていって、セリフが自分の血となり肉となる、そういう進め方をしてきました。今回、共演の方々は皆さんそれぞれの分野で活躍されていて、それぞれにこういう芝居、こういう見せ方をするというのがおありになると思うんですが、まずは正攻法で新たな自分を見せていって、いい意味でかき乱すというか、こういうやり方もあるんだという刺激になれたら。目標は高く、皆さんにどーんとぶつかっていって、小さくおさまらないようにしたいですね。
――今回演じられるフィービーという役柄についてはいかがですか。
女性が三人出てくる中で一番人間くさい、弱い部分を前面に出したキャラクターだなと思いました。皆で力を合わせてこうしようと考えるのは一路真輝さん演じられるルエラで、巻き込まれてあたふたするのが、私の宝塚の同期である紺野まひる演じるジェシカ。その中で、できない、こわい、いやだ、そんな言葉を割と正直に出す、すごく人間くさい子なんです。
――けっこうめそめそ泣いている感じでもあり、いわゆる壮さんのパブリック・イメージとはかなり違った役柄なのかなと。
だから俳優って楽しいんですよね(笑)。自分じゃない人間になることができるから。もちろん、そこに演じるという要素がありますけれども。その作業を通じて自分自身の人生もより豊かになっていく感覚がありますね。自分と遠い役ほどすごく楽しくてやりがいを感じるというか。人間って非常に奥深いものだと思うから、一面的に色づけられるのってどうなのかなって。例えば、宝塚時代、俺様タイプだって言われたりもしていたし、そう言われたからにはある程度そう見せていかなくちゃいけないのかなと思っていた部分もありました。もちろんそういう個性を見てファンになり、ついてきてくださる方もいらっしゃるのでそれは全然かまわないんですが、人間ってもっと、細胞レベルで個性があって、それぞれ面白い存在だと思っているんです。
――役作りにあたってはどんなことを手掛かりにされますか。
セリフがどこまで自分の身になるかですよね。最初に読んだイメージを軸にして、言葉を交わす人たちとの兼ね合いでさまざまなものをそぎ落として純度を上げていく。宝塚現役のころはここまでセリフの量が多くなかったので、このセリフを立たせようとか、この句読点をきちんと表現しようとか、言葉だけでなく目の動かし方や所作なんかで表現することも多かったんです。セリフの呼吸や間、どういう風に言葉を発している自分を見せるか、そこはやはり様式美の世界でしたから。今回はどうなっていくのか、もっと言葉だけでの表現になっていくのか、そのとき身体の動きとの兼ね合いはどうなるのか、ちょっとまだわからないところがあります。最近は、お客さんとして舞台を観に行ってもそういう見方をしていることが多くて。役者さんたちの呼吸の仕方とか、今どういう気持ちでセリフを言っているか、どういう気持ちで動いたか、それは感覚なのか計算なのか演出なのか、自分がやるつもりで観てしまうんです。もちろん作品も楽しみたいので、部分部分ではありますが。あとは、今回かなり出ずっぱりなんですけど、それってどんな感じなのか、集中力がもつのかなとか、まったくわからないことだらけです。
翻訳もののストレートプレイは初挑戦ですが、これからもいろんな作品に出会ってやっていく上では絶対に通らなくてはいけない道。取り組むことで新たな自分も見つかるでしょうし、自分自身のキャパシティももっと広がっていくでしょうから、とても楽しみです。今はまだゼロの状態ですが、今回はこの形で新たな壮一帆をお見せしたいですね。その後で今までやっていたような舞台に戻ったとき、感覚的に違うものが生まれるだろうなと、それもまた楽しみなんです。
――この人はよくわからないなとか、よくわかるなとか、作品によってはさまざまな役柄に出会われるかと思うのですが。
それはありますね。それだからこそ面白いんだと思うんです。宝塚時代の『ベルサイユのばら』のフェルゼンやアンドレは心情的には理解できない部分もありました(笑)。もちろん、演じているときはその人たちのことを心底信じて信頼して、自分のやってきたことを表現として見せていましたが。逆に、自分のキャラや人間性に近いほうが難しいですね。人はそれぞれ無限大の感情や感覚を持っているから、それが逆に自分自身ではわからないんですよね。客観的に見たほうがわかりやすいのかもしれません。自分に近くて楽しく呼吸するようにできるまでが早かったのは、『虞美人』の劉邦と『若き日の唄は忘れじ』の牧文四郎ですね。最後まで難しかったのは『心中・恋の大和路』の亀屋忠兵衛。なかなか降りてこなくて、最後は神頼みならぬ近松門左衛門様頼みで、お墓参りに行きました。受験生みたいに「ヒントをください」とお願いして。
――そしたら降りてきた?(笑)
思ったより、こじんまりしたお墓だったんですよ。苔もびっしりで、梅の花が咲いていて、リアルだったんです。それを見たとき、あっと思って。そこですべてが解決したわけではなかったですが、一つクリアになりましたね。「これが、近松門左衛門様のお墓だよ!」 という立派な感じだったら、降りてこなかったかもしれない(笑)。